桜楓会

広島支部 折り鶴~会員の広場~

  • 広島支部

【縮景園散策】   
 桜の開花宣言から半月ばかり過ぎた4月8日広島支部のミニ企画『縮景園の散策』に参加しました。当日は、最高のお花見日和となり、園内の優しく愛らしいピンクの花々、みずみずしい若葉、清々しい空気に包まれて、参加者一同大いにリフレッシュすることができました。

 ボランティアガイドの方にお願いして、園内を案内して頂き、改めて縮景園についての成り立ちや歴史を詳しく知ることができ、その魅力を再発見いたしました。園内には9種類110本の桜が植えられていているとのことで、種類も順々に変化し、今はソメイヨシノ・うすずみ桜・しだれ桜など咲きそろって、目を楽しませてくれました。桜の他にも、ピンクの濃い菊のような花びらをつけた菊桃や白色の小さな花弁が清楚で可愛らしい利休梅もまた美しく趣をそえていました。
 そんな中、3本の被曝樹木があり、傾いて空洞になっているムクノキは痛々しささえ覚えました。樹齢200年以上といわれる大銀杏は、大きく傾いているものの、夏には葉っぱが生い茂り、秋には紅葉し、銀杏もなるそうです。原爆が投下された時、北側の京橋側一帯に逃げた人々の遺体が園内にも埋葬されていて(現在は平和公園に)慰霊碑が建ち、現在も連日伝えられるウクライナでの惨状が頭をよぎり、心より平和を願って手を合わせました。
 
 ボランティアガイドの方にお礼を言って、一緒に写真を撮った後は自由解散となり、時間の許す人は、風通しのよい休憩所で、歓談を楽しみました。女子大時代の寮の話や、支部の活動について、連絡のとり方や行事の企画内容など貴重なご意見を頂き、またヘルペスが喉にできて、病名がなかなかつかず一か月も入院するという大変な思いをされた方のお話は、ヘルペスワクチン接種の必要性を強く感じました。何気ないお話の中に、教えて頂くことが多々あり、「桜楓会の集まりは、やっぱりいいな」と感想を述べられている方がおられ、私も同感いたしました。
 今回のミニ企画は、コロナ禍で開催できるかどうかの判断の難しさもあり、速やかに連絡のとれるメールアドレス登録者の方のみ再度お知らせさせて頂きました。今後も感染状況がどのように推移するのか全く読めません。必要に迫られ、世の中がデジタル化する中、桜楓会本部からも講師派遣事業でZoomによる講演の案内がきております。デジタル機器の使い方を学ぶチャンスとも捉え、多くの支部会員の皆様と共に学習でき、外出できない時、自宅にいながら活動の輪が広がればいいなと思いました。 

~縮景園プチガイド~
 広島市民にとっては、憩いの場所である縮景園は、今からおよそ400年前(1620年)に広島藩初代藩主浅野長晟の別邸として、藩主の命を受けた浅野家の家老で、茶人としても知られる上田宗箇によって作庭されました。円の中央に濯纓池が掘られ、大小10余の島、その周囲に山、渓谷、橋、茶室四阿などが配置され、回遊式池泉庭園となっています。春の日差しを浴びて、亀島で数匹の亀がちょうど甲羅干しをしたり、池に引かれた水は、京橋川と海水が混じり合って「汽水」になっているため錦鯉もボラやチヌも一緒に泳いでいるという不思議な光景を目にしました。
 江戸時代の半ば宝暦の大火が発生、建物や樹木の多くが焼失。現在残っているのは、藩主浅野重晟が、京都から呼び寄せた庭師清水七郎右衛門によるものということでした。池の中央にある跨虹橋は、地上と天上を結ぶ虹のように見え、重晟がこだわって造り直させただけあって美しいフォルムを見せています。
 庭園のほぼ中央にある「清風館」は、日清戦争の時の明治天皇の居所で、東側には花頭窓が設けられ、跨虹橋に臨んでいます。清風館から、東に向かって桜のアーチを通り抜けると、過去・現在・未来を表す三連橋があり、その橋を渡ると、心静かになり、悟りがひらけるとか。そこからは、富士山に見立てた「迎暉峰」に向けて緩やかな登りになります。途中「有年場」といわれる一画があり、藩主自ら五穀豊穣を願って、田植えをされたと聞き、往時が偲れました。「迎暉峰」は、園内で一番高いところにあり、縮景園の全容が見渡せ、えも言われぬ美しい風景に、一同歓声が上がりました。
 大銀杏を見て、北側の京橋川沿いに咲く桜を愛で、慰霊碑の前から西へ歩みを進めました。月を鑑賞するのによい「明月亭」夕日に映える紅葉が美しいお茶室「夕照庵」など、歳月の流れを感じる、珍しい形の石灯籠など観て、スタート地点に戻ってきました。   岡田 一子(新31食)

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